マルコの福音書講解シリーズ

マルコの福音書講解シリーズ

値をつけよ、『永遠』に

イエス・キリストの前に、ある男性が訪れたところから今日のお話は始まります。他の福音書から青年・リーダー格と判明するこの人には、ある悩みがありました。それは、「永遠のいのち」を得ていないということでした。裏を返せば「死」を意識していたとも言えるこの人は、切実な願いを持ってイエスの前に進み出ます。彼は何を語り、そしてキリストは彼に何を答えたのか。そこには、人間にとって本質的ともいえる「価値観の変革」の必要がありました。死やいのちを真剣に考える機会の乏しい現代人に、キリストは何を語っているのでしょうか。聖書から丁寧に説き明かします。
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子どものように

「子どものように神の国を受け入れなければ、決してそこに入れない」。有名なイエス・キリストのことばですが、しばしばこのフレーズは誤解されています。「子どものように純粋無垢にならなければ」と理解している方が多いのです。しかし、本来のイエスの意図は全く別の所にありました。それはどのようなものだったのでしょうか。聖書から解き明かしていきます。
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ふたりは一体となる

マルコの福音書は10章から舞台がユダヤ地方に移り、いよいよイエス・キリストの十字架への道が近づく転換点に入ります。伝えようとするメッセージも、「弟子としての生き方」の最も基本的で大切な部分になっていきます。その最初に位置するのは「結婚と離婚」でした。2000年前の当時も、また現代も、様々な価値観が結婚と離婚について語る中で、聖書は終始一貫して「結婚とは何か」を語り続けます。聖書から丁寧に説き明かします。
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塩が塩であるために

福音書の中でイエス・キリストが発した言葉の中でも、最も過激に思えるのが今回の箇所です。しかし、一見すると過激に思えることばの背後には、「いのち」をめぐって人間が陥っている矛盾に対する、深い問いかけがありました。物質社会、目に見えるものが全てと思われるこの世界の中で、人はどこに目を向けて生きるべきなのでしょうか。イエスのことばを頼りに、聖書から紐解いていきます。
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真に価値あるもの

「この中で誰が一番偉いのか」。一見、子どものような幼稚な議論を繰り広げる弟子たちですが、実は人の先に立ちたいという願望は人間に共通のものと言えます。イエス・キリストは、そのような弟子たちに対して、「仕える心」を説いていかれます。いよいよエルサレムでの十字架の時が近づいてくる中、キリストはどのような思いでその教えをされたのでしょうか。聖書から丁寧に説き明かします。
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イエスの忍耐

現代人にはあまり馴染みの無い「悪霊つき」の少年をイエスが癒やす場面です。イエスが不在の間に、弟子たちが悪霊を追い出そうとして見事に失敗したことから話は始まります。弟子たち、そして非難する律法学者たち、見物するだけの群衆、そして藁をもすがる思いの父親。さまざまな人間模様が見え隠れする中で、イエスは嘆きと共に、深いあわれみを示してくださいます。人間の弱さを受け入れ、あわれみを持って接して下さる神の姿に、聖書から迫っていきたいと思います。
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これはわたしの愛する子

「変貌山」として知られる、山の上でイエス・キリストの姿が変わった出来事の場面を扱います。限られた弟子たちだけに指摘に示され、しかも復活の後まで口止めされたこの出来事には、実はイエス・キリストの認証という深い意味がありました。山の上で神が弟子たちに語ったことばから、クリスチャンとして何が期待されているのかを学んでいきます。
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いのちについての逆説

マルコの福音書の中でも、最も「耳に痛い」とも言える今回の箇所。しかし、その背後には「いのち」というものをどのように受け止めるかという、人間にとって根本的とも言える大切なテーマがありました。限りあるこの世でのいのちにのみ関心が行きがちな現代人に対して、イエス・キリストは、ある意味では厳しく、しかしある意味では優しく語りかけていかれます。聖書から丁寧に説き明かします。
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イエスとは誰か

誰でも知っている「イエス・キリスト」という呼び方ですが、「キリスト」の意味は何かということは余り知られていません。イエスの弟子たちも言葉としては知っていましたが、実際にそれが何を意味するのかはまだ気づいていませんでした。そんな彼らに、イエスは「あなたはわたしを誰だと言いますか」と尋ねます。その問いは、私たちに問いかけられたものでもありました。「イエスとは一体誰なのか」。聖書からご一緒に考えて見たいと思います。
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弟子、未だ悟らず

「聖書の奇蹟の一つでもこの目で見られたら、すぐに神を信じられる」。そう考える人は多いのでは無いでしょうか。ところが今回取り扱う聖書箇所では、ごく短い期間に目を見張るようなイエス・キリストの奇蹟を連続して見たにも関わらず、何も学んでいない弟子たちの姿が記されています。人間にとって、奇蹟を見るということが信仰を持つことに対して、必ずしも寄与していないのです。このことは意外なことではないでしょうか。では、信仰の本質とは何なのでしょうか。聖書から説き明かしていきます。
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食卓の下の子犬でも

苦しんでいる娘の癒やしを求めてやってきた女性を「犬」にたとえる—。一見するとギョッとしてしまいそうなイエス・キリストの行動の背後には、彼女の信仰の神髄を知るイエスの深い思惑がありました。明るくイエスに応答する彼女の姿の中には、「自分は価値のある人間だ」と自認しているユダヤ人の中には見られない、真実な信仰がありました。そんな彼女の姿から、「イエスを信頼するとはどのようなことか」をご一緒に学んでいきます。
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心を汚すもの

聖書を読んでいくと、必ず目にすることになる「罪」ということば。では「罪はどこからくるのか」という、人間にとって根本的とも言える問題については、聖書は何と語っているのでしょうか。今回スポットがあたるのは、まさにこのテーマです。イエス・キリストと弟子たちとのやり取りを通して、次第にあるべき「罪」の理解が明らかになっていきます。そしてその過程で、私たちがよく陥る落とし穴についても明かされていきます。それはどのようなものだったのでしょうか。ご一緒に学んで行きましょう。
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心の礼拝

「宗教」と聞くと「規則や決まり事に縛られるもの」という印象を受ける人は多いのではないでしょうか。実は、イエス・キリストの時代のユダヤ教がまさにそのような状況でした。聖書のことばは、複雑な人間の言い伝えによって骨抜きにされ、神と人を愛して生きるという聖書の中心的な教えがないがしろにされていました。その状況に、イエス・キリストはどのように反応したのでしょうか。また、このことから教訓として何を学ぶことができるでしょうか。聖書から丁寧に説き明かします。
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わたしだ。恐れることはない

新約聖書に記されているイエス・キリストの奇跡の中でも、特に印象深い「湖の上を歩く」場面を見ていきます。常識からすれば信じがたく思える奇跡をあえて残した聖書記者の意図を探るとき、そこには「イエスは神である」という聖書全体の主張が見えてきます。弟子たちはイエスの奇跡を間近で見ていましたが、それでもイエスを本当の意味で信じてはいませんでした。そんな弟子たちの姿から、人間の不信仰の性質、そして、それを理解した上で寄り添って下さるキリストの真実さをご一緒に学んでいきます。
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イエスの心遣いと配慮

ともすると宗教というものは、俗世間を離れること思われがちですが、イエス・キリストが語られたのは全く反対でした。キリストは、自分自身の休息よりも、人々の必要に共感し、深いあわれみをもって彼らを愛されました。そのように、クリスチャンは、社会の中で弱さを覚えている人、必要を覚えている人を助け、彼らに仕える人となることを、キリストは期待していたのです。それはまた、「イエスとは一体どのようなお方なのか」という、新約聖書の根源的な問いにも深く関わるものでした。ガリラヤ湖の湖畔にて、五千人の人々にパンを提供するイエスの奇跡を通して、現代社会における信仰者の使命を見つめていきます。
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預言者の苦難

イエス・キリストの到来に先立って、「道を整える者」として知られる「バプテスマのヨハネ」が捕らえられ、その生涯を全うする悲劇的な場面です。「最後の預言者」としての彼の生涯は、決して幸福なものとは言えませんでしたが、それはある意味では私たちが人生の中で経験するさまざまな困難や悩みを象徴するものと言えます。では、私たちはそのような苦しみにどのように対処していけば良いのでしょうか。聖書からヒントを学びます。
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主に遣わされる人の心得

イエス・キリストの12人の弟子は「使徒」と呼ばれて、良く知られています。その意味は「遣わされた者」です。今回はイエス・キリストが12人を実際に遣わす場面です。イエスは弟子たちに、弟子として生きる時の心構えを、簡潔なことばで教えて彼らを送り出します。その言葉にはどんな意図があったのでしょうか。そして、現代の社会でもイエス・キリストを信じ、キリストによって遣わされる信仰者にとって、どんな意味を持っているのでしょうか。聖書から丁寧に説き明かしていきます。
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不信仰の本質

地元出身の有名人・ヒーローの凱旋ともなれば喝采が起こりそうなところ、イエス・キリストの帰郷はそれとは正反対の反応が起こります。一体、何が原因だったのでしょうか。信仰を持つことを妨げる二つのポイントに目を向けつつ、聖書から説き明かしていきます。
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恐れず、ただ信じていよ

マルコの福音書からのシリーズ。イエス・キリストが二人の人の求めに応じて癒やして救う場面です。この二人はそのプロフィールにおいて顕著な違いがありましたが、似通った面もありました。一見すると奇妙にも見える進行をする中から、信仰とは何か、イエスの救いとは何かが力強く現されていきます。聖書を丁寧に追いつつ、説き明かしていきます。
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イエスを誤解する人、伝える人

同じ出来事を体験しているのに、まったく正反対の反応に直面するという経験をされたことはなかったでしょうか。今回の聖書箇所ではまさに、そのような対照的な反応が生じています。イエス・キリストを誤解して、その恵みをもらい損なった人もいれば、イエス・キリストを真に理解して、人生が変えられた人がいました。この違いはどこからくるのか。当時の背景なども踏まえて、聖書から丁寧に説き明かします。
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