
A.以下のように考えれば、信じやすくなるのではないでしょうか?
ある人が言いました。「聖書にある『奇跡』ね。あれがなければ、聖書を信じられるんだけどなあ。現代人の理性からすると、奇跡を信じるのは難しいよ」。
確かに、このように考えている一般の方は、とても多いように思います。その一方で、そのような方が家族が交通事故で危篤に陥った時には『奇跡的』な回復を祈ったりします。明らかに矛盾なのですが、多くの人はこれを矛盾だとは考えません。
しかし、公平な見方をするのなら、聖書の『奇跡』も、最初から「ありえない」と決めつけるのではなく、理性的に分析することが大事でしょう。実際、そうすると聖書の奇跡は特段、特別なことを言っているのではないことが分かってくるのです。以下ではそのことを見ていきましょう。
1.歴史についての暗黙の前提
人間というものは「自分はすべての情報を自分で見て、そして判断している」と考えがちです。しかし、実はそのような考えは思い込みにすぎず、実際には判断材料を人に依存しながら生きているのです。たとえば、私たちは歴史上の出来事すべてを「見て」知っている訳ではありませんが、信じています。
一例として「聖徳太子」「本能寺の変」「アポロ宇宙船の月着陸」などは、どれ一つとして私たちは実際に当事者として体験してはいませんが、その存在は信じています。「文献」が残っているからです。ただ、文献なら何でも信じるのではなく、「信頼性」が評価された上で信じます。具体的には、
①量 十分な量の証拠が残っているか
②古さ その証拠は充分な古さがあるか
③真正さ 証拠を残した人は信頼に足る、素性が知れた人物か
④正確さ それぞれの証拠の間に矛盾はないか
といった基準を(概ね)満たしていれば、私たちはそれを「事実」として信じています。このようにすることで、「自分の目で見ていないことは何であれ信じない」という偏屈な人にならないで済むわけです。
この点で新約聖書を考えた場合、同時代の歴史記録と比べても、圧倒的に充実した「歴史」としての信頼性を持っていることが分かります(本Q&Aの記事参照)。ですから、聖書は全体として、歴史文書として信じるに足る確かな信頼性を持っていると考えて良いでしょう。

大量のヘブル語写本である「シナイ写本」が発見されたクムランの洞窟
2.奇跡に対する三つの反応
しかし、聖書の奇跡の記事を目にした人は、実際には以下のような反応を示すことが大半です。
①当惑型 「なんと、奇妙だ。一体何が起こったんだ…?」
このタイプの人は驚き、まごついていますが、奇跡の有無の判断については留保します。つまり「判断しない」ということです。驚きの理由は、常識と一致しないとか、物理法則や科学的知見と食い違う、という点です。最も多いパターンがこのような人です。
②否認型 「こんなのは今まで見たことがない。たぶん元からそうじゃなかったんだ」
このタイプの人は「奇跡はない」という<結論>から、逆方向にさかのぼって推測して解釈します。しかしそのように判断する根拠は一つも出さないのです。つまり「主観」ということです。このようなあり方には、聖書の歴史文書としての信頼性は簡単に否定するのに、自分の「推測」の信頼性は無条件で肯定する、という矛盾もはらんでいます。
③すり替え型 「これは魔術だ。悪い霊のしわざだ!」
このタイプの人は、奇跡そのものは認めますが、それは神の力などではなく、他の何らかの力(例えば悪霊)のしわざだとします。この説の問題点は「聖書に書かれている奇跡はみな、神やイエスの名を唱えたうえで行っており、それに敵対する悪魔が働くような余地がない」ということです。しかもイエスは悪霊そのものを追いだしたり、滅ぼしたりしています。悪霊からすればこれは破滅的なことです。ですから明らかに、悪霊と結託して奇跡を行っているのではないのです。そもそも、魔術や悪霊には奇跡を実現する力があるのに、神やイエスにはその力は無いと断定するのは一貫性がありません。
ご覧になって分かるように、いずれのパターンにも、結論を出さなかったり、矛盾点をはらんでいたりと言った問題があるのです。
3.聖書の奇跡のタイプ(型)
「聖書の奇跡を信じられない」と感じる人は、すべての奇跡を一緒くたに考えている場合が多くあります。しかし実際には、聖書の奇跡には以下のような区分があります。
①奇跡それ自体はユニークではなく”タイミング”が特異であるもの
例)ヨルダン川が枯れる、モーセの十の災害のいくつか(蛙、雹、いなご、ぶよ)、嵐を静める
②奇跡”それ自体”がユニークであるもの
例)イエス・キリストの復活、盲人の癒やし、麻痺した人の癒やし、ラザロの復活
当然、②は①よりも受けいれるのが難しい奇跡です。ですから、もし②の奇跡のうちひとつでも証明されれば、奇跡の全体を信じることも可能になると言えるでしょう。ある奇跡はできるが、別の奇跡はできないと考えるのは論理矛盾だからです。奇跡は、ひとつでも認めれば、他もあると認めなくてはいけません。
そこで、②の奇跡の中で「最も実現性の低い奇跡」である「イエス・キリストの復活」について考えてみましょう。実は、復活については、古代の他の出来事よりも遙かに多くの文献資料が残っています。しかも、新約聖書の最古の写本は、復活を目撃した証人がまだ存命中に書かれています。これは新約聖書がその真実性において高い水準を持っていることを表しています。
さらに、イエスの弟子たちの大半は復活を証言したために後に殉教したのです。もしも嘘を付いたのなら、そのような行動はありえなかったことでしょう。
このように考えると、イエス・キリストの復活の奇跡は実際に起こったこと、と考えるのが最も自然です。そして、もしこの復活というもっともあり得ない奇跡が実際に起こったのなら、ほかの奇跡も信じることができるでしょう。なぜなら、死人を復活させられる神なのなら、病の癒やしや嵐を静めることは比較的小さなことだからです。

イエス・キリストが嵐を静める奇跡を行ったガリラヤ湖
4.聖書における奇跡の役割
ところで、聖書の奇跡が脈絡もなく行われていると感じて当惑する方もおられるようです。しかし、聖書の奇跡には以下のような明確な目的(役割)があるのです(以下は「Hard Saying of the Bible」より構成)。
①奇跡は、神が遣わした使者を認証する
警察官は制服や警察手帳が、医者は白衣や医師免許が、その人が本当にその職にあるかどうかを認証します。同じように、聖書の奇跡は、本当にその人が神から遣わされた人物かどうかを判断する証拠として用いられます。預言者か、使徒か、キリストか、あるいは普通のクリスチャンなのか。神は奇跡を用いて認証するのです。もし奇跡を行うことができるなら、その人は神からの本物の使者だと分かります。
②奇跡は、神とその統治の本質を表す
奇跡は、神の慈しみと赦しを表すものです。イエスは「神の国は来た」と宣言しました。それを聞いた人々は神の国とはどんなものかと尋ねます。そこでイエスは、神の国の支配の実際を奇跡によって表します。すなわち、盲人の目が開き、足のなえた人が歩き、疎外された者が共同体に復帰し、自然界の荒々しい力は静められました。これこそが、神の国の何たるかを示すものでした。つまり、来るべき神の国の完全な現れの時にはこのようなことは普通に起こるのだよ、と教えて下さったのです。
③奇跡は、神の国の働きを実際に成し遂げる
ルカ18章には「金持ちは救われるのは不可能だ」と書かれています。神にはどんなことでも可能であるにも関わらず、です。しかし次の19章を見ると、金持ちのザアカイが財産を放棄して救われています。明らかに奇跡が起こっています。神の国が金持ちにも来たのです。同じことが悪霊を追い出された男にも言えます。それは、サタン(悪魔)の王国の境界線が後退している、ということです。その他の奇跡もこれと同じく、神の国の前進を示す意味があったわけです。
このように、聖書に記されている奇跡は、きちんとした意味と目的があって行われていることであり、力をひけらかすためとか、見せびらかすためといった目的ではないのです。ですからイエス・キリストも、奇跡を行うことに意味が無いと思われるところでは「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。」(ルカ11:29)と言っています。
また、奇跡は信仰のある所でのみ行われます。ですから、イエス・キリストを拒絶した故郷の町ナザレでは「何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった」(マルコ6:5)のです。この意味でも、奇跡にはきちんとした意味と目的があって行われていることが分かるでしょう。
5.結局は「世界観」の問題
さて、このようにして奇跡について学んできましたが、「それでも信じがたい」と感じる方もおられるでしょう。確かに、聖書の奇跡についての記述は信頼性の高いものですが、だからといって、聖書の記述だけでその奇跡が100%絶対にあったと言い切れる訳ではありません。
では、結局のところ、聖書の奇跡をどう受け止めればよいのでしょうか。
そこで考えていくと、この問題は突き詰めれば結局は「世界観」の問題に行き着く、ということに気づきます。というのは、聖書はその最初の1ページ目から「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)と記しているからです。
全宇宙を無から創造する、というのは、どんな奇跡にもまさる「究極の奇跡」です。もし、このようなことができる神であるのなら、それ以下の奇跡—つまり死人をよみがえらせる、嵐を静める、病を癒やす—などは当然できるでしょう。できないと考えるのは論理的な矛盾です。
ですから聖書は、その冒頭で「全宇宙を創造する、そのような偉大な奇跡を行うことができる神」をまず紹介し、神とはそのようなお方であると受け入れることを「前提」として求めているのです。この世界観を受け入れないまま聖書を読んでいくと、奇跡を信じられずに葛藤するということになるのです。
大切なことは、もし「神の創造」を受け入れないのなら、「偶然の宇宙」を信じるほかなくなる、ということです。宇宙は偶然も存在し、意味も目的もない、と考えるほかないのです。
では、あなたは「あなたの人生には意味も目的もありません。すべては偶然なのです」と言われて、満足できるでしょうか? そのような世界観で、生きる喜びを感じることができるでしょうか? 多くの人は「NO」と言うのではないでしょうか。
つまり、奇跡の問題は結局のところ「この世界をどのようなものとしてとらえるのか」という、世界観の問題に行き着くのです。「神の創造による宇宙」という世界観を受け入れるなら、神は私たちの人生においても奇跡を経験させることのできる、力強いお方として、あなたの人生を導いて下さることでしょう。




